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陳 宧(ちん い)は、清末民初の軍人政治家。袁世凱の下で四川省の将軍として中国西南部の軍政に関与した。原名は寛培。字は養細。号は二庵。なお「陳宦」との表記は誤りである。〔ちなみに中国本国においても、この人名表記の誤りは定着しかかっていたとされる。裴高才「莫将“陳宧”当“陳宦”」 『中華読書報』2012年8月8日。〕 == 事跡 == === 清末、民国成立直後の事跡 === 清末に会試に合格し、中書として採用された。1897年(光緒23年)、湖北省武備学堂に入学し、卒業後は北京で武衛前軍管帯に任命された。1903年(光緒29年)、四川総督錫良から幇統に任命される。新軍を訓練し、常備軍6営、工作兵1営を組織した。光緒32年(1906年)、四川新軍第33混成協統領兼四川武備学堂会弁に任命された。同年、陸軍小学が設置されると、陳宧はこの会弁も兼任している。 1907年(光緒33年)、雲貴総督に異動した錫良に陳宧も随行し、雲南新軍協統兼雲南陸軍講武堂堂長をつとめた。1909年(宣統元年)2月、錫良が東三省総督に異動すると、やはり陳宧もこれに随行し、奉天督練公所総参議に任命された。1910年(宣統2年)、東北新軍第20鎮統制官として奉天に駐留している。1911年(宣統3年)にはドイツへ軍事留学した。 辛亥革命後、帰国した陳宧は、錫良の推薦で袁世凱に任用された。1912年(民国元年)、北京政府参謀部参謀次長に抜擢された。しかも、実際には参謀総長代理(参謀総長は黎元洪)として参謀部の実権を掌握し、後に陸軍中将の位を授与された。1914年(民国3年)5月、袁が陸海軍大元帥統率弁事処を設置すると、陳宧もこの構成員となる。主に西南部(四川、雲南、貴州)の軍事問題について研究し、意見を奉呈した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳イ (四川将軍)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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